こけしの由来を紐解いていこう!~木地師の巻~

こけしのルーツを示すものってあるのか?

ないんだな、それが

こけしは子供のおもちゃという特性ゆえに、成り立ちを示す決定的な資料がまだ見つかていないのが現状です。
しかし、当ブログでもたびたび取り上げられている木地師(木でお盆やお皿を作ることを生業としている人々)のルーツを紐解けば、こけしに対する理解が深まると思います。

注意

ここに書いてあるものはあくまで素人の独自研究に基づいた文章です。
専門性よりわかりやすさを重視した文章なので、ご注意ください。
また、こけしや木地師の成り立ちには諸説ありますので、ご了承ください。

木地師のルーツと惟喬親王伝説

平安時代初期、文徳天皇の弟・惟喬親王(これたかしんのう)が皇位継承に敗れ、現在の近江国奥永源寺小椋谷(現在の滋賀県東近江市)に隠居しました。
惟喬親王は法華経の巻物のひもの原理から、網を引いて軸を回転させる手引き轆轤を考案したとされています。

…が、あくまで惟蕎親王伝説はフィクションで、史実とは異なります!!
あくまでファンタジーとして楽しむようにしてください!!

余談ですが、小椋姓の大半は木地師が祖先とされています。
また、惟喬親王は木地師の祖先として、滋賀県東近江市の大皇器地祖神社、筒井神社などで祀られています。

実際のところどうなのよ!

轆轤は渡来人によって大陸から伝わったとされています。
奈良時代末期、轆轤を使って数多くの百万塔が作られたのが発見されています。

百万塔って何なのさ?

陀羅尼(仏教の呪文)が描かれた紙を納めるための、木製の小さな塔のことだ。
ちなみに、今でも作っている工人さんはいるとのことだ!

そして中世末期

木地師たちは住み着いた地の木を切りつくしてしまうと、豊富な木材を求めて山から山へと全国を転々とするようになりました。
約400年前、そんな木地師の群れのひとつが福島・会津に辿り着きました。
その後は蔵王、福島の吾妻、宮城の栗駒へと流れつき、東北の地に木地師が住み着くようになりました。

近世

近世に入ると、木地師は氏子狩り(今でいう国政調査)が行われました。
氏子神役の代銭や神事に使う道具類代を徴収する代わりに、「木地屋文書」の写しや手形・印鑑を与え、木地師の職の特権を保障する、いわば職能集団として藩の加護を受けるようになりました。
そんな中木地師たちは江戸末期、箱根からの技術や優れた郷土玩具の影響を受け、こけしを作るようになったとされています。
しかしなぜ温泉地を中心にこけしが発展したのは定かではありません。

明治以降

明治以降、山の所有権が確定し、木地師は自由な木の伐採ができなくなったことや、陶磁器などの発展が進むにつれ、木地業は衰退しました。
多くの木地師は農民として生業を立てざるを得ませんでした。

そこで昭和初期にこけしの美が見直され、第一次こけしブームが起きる訳だ。
奇跡的に木地業は生き残ったという訳ですな。

まとめ

日本に木地業は奈良時代から続く歴史のある職業とされています。
また、こけし文化は木地師の果ての地で発展した優れた文化です。
この後も、箱根からの技術や優れた郷土玩具などについて詳しくお話ししたいと思うので、もう少しこけしのルーツについてお付き合いください。

参考文献

入魂の木地師 みやぎ蔵王山麓のこけし/斎藤喬著/1989年5月2日/宝文堂
伝統こけしの本/荻原健太郎著/株式会社スペースシャワーネットワーク/2017年8月20日
こけしのふるさと/菅野新一・土橋慶三著/未来社/1972年3月30日
こけし図譜/佐々木一澄著/誠文堂新光社/2020年1月18日

コメント